2020年9月27日放映の情熱大陸は、「中野正貴~誰も見ぬ東京を撮影してきた写真家が撮る新たな東京の景色」。
中野正貴(なかの・まさたか)は、大都市「東京」を30年以上、大型カメラで撮影をし続けている写真家です。
誰もいない東京の姿を写した『TOKYO NOBODY』(2000年)、ビルや民家などのあらゆる窓を借景にした『東京窓景』(2004年)、川を漂い見上げた『TOKYO FLOAT』(2008年)、など“東京三部作”といわれる写真シリーズを発表し、話題となりました。
中野は、渋谷の駅前、銀座のビル街など、人のいない場所を求めて11年間撮り続けた写真集、『TOKYO NOBODY』 (リトルモア)で、日本写真協会賞新人賞を受賞しています。
また、建物の窓から東京の特徴を捉えた写真集『東京窓景』 (河出書房新社)で、第30回木村伊兵衛写真賞を受賞するなど、実力のある写真家です。
2020年、猛威を振るうコロナウィルスによって、街からは人の姿が無くなり、東京の街は、在宅により、窓から眺める風景となりました。
これは、今まで中野が撮ってきた写真が、現実になったということなのでしょうか?
中野は言います。
「写真には不思議な力がある、何故か予言の書のようになってしまった」
今、中野が撮ろうとする写真には、どんな未来が語られるのでしょうか?
情熱大陸 中野正貴(写真家)プロフィール
中野正貴(なかの・まさたか)は、1955年福岡に生まれ、1歳で東京に移り住んでいます。
武蔵野美術大学に進み、授業で撮った写真が褒められるまで、写真に興味はなかったそうです。
大学卒業後、広告写真を手がける会社に就職し、その業界で広く知られたカメラマン、秋元茂の助手として働いて経験を重ね、25歳で独立しています。
28歳で結婚して、2人の娘さんがいます。
中野の東京渋谷にある仕事場は、撮影器具などが溢れ、Tシャツが、売るほどに積まれています。
Tシャツが好きなのかと思えば、夏の暑さから、たくさん着かえるからと集めているうちに、山のようになったらしいのです。
何だか、中野のこだわりぶりが、少し垣間見えるように思えて、笑えます。
完璧な単身赴任状態だ、という中野は、夕食のゴーヤチャンプルーも、なかなかの手さばきで作りあげます。
このように、写真に専念できる環境に居られるのは、家族の理解があってこそと、中野は言っていました。
1955年、福岡県生まれ。東京在住。
1979年、武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン科卒業。写真家、秋元茂に師事。
1980年、独立。雑誌表紙、各種広告撮影を手掛ける。
2001年、写真集「TOKYO NOBODY」で日本写真協会賞新人賞を受賞。
2005年、写真集「東京窓景」で第30回木村伊兵衛写真賞を受賞。
2008年、「MY LOST AMERICA」でさがみはら写真賞を受賞。
2019年、東京都写真美術館で大型写真展「東京」を開催。
(出典:TBS 情熱大陸オフィシャルサイト)
情熱大陸 中野正貴が使用するカメラとは?
中野正貴のカメラは、35年前に手に入れた、外国製の木製の大判フィルムカメラです。
デジタルでは出せない、細部までシャープなのにぬくもりを感じさせる微妙な質感が、作品作りに生かされています。
中野正貴の仕事場は、東京渋谷にあります。
中野は、他の人があまりやっていないことだから、ちょっと見せておきたい、とかつての手作業で制作した作品を見せてくれました。
それは、23年前のキューバで撮った写真。
これらの写真は、8×10(エイトバイテン)で撮ったといいます。
8×10(エイトバイテン)は、大判カメラ用のフィルム[203.2mm×254mm]のことで、一般的に知られている35mm判[24mm×36mm]とは違って、シート状になっており、1枚1枚完全暗室でセットしなければならないものです。
中野が手作りした作品は、20種類ほどのネガを、ひとつひとつマスクを作って、焼き付けたものでした。
焼き付ける前の下絵も一緒に見せながら、
「今だったらパソコンでつくるから、失敗がないじゃない。失敗するのが面白いの。上手くなりすぎちゃうと、つまんなくなっちゃう」と、中野は言います。
生き生きとしたキューバの人たちの顔や姿が重なり合い、深味のある色ににじんで、見る人の心により印象を残すように感じられます。
また、中野のモチーフである、街の表情を、人が暮らす窓越しに覗いた「東京窓景」で、歌舞伎町で“ゴジラが見える窓”を撮った時は、4×5(シノゴ)[102mm×127mm程度]と呼ばれる大判フィルム用のカメラを使っていました。
扱いは面倒でも、でき上った時の達成感は大きいと言います。
情熱大陸 中野正貴の撮影スタイルの特徴は、粘り強さ(『東京窓景』ゴジラ編)
夏の盛りの新宿歌舞伎町で、中野は、モチーフが映える場所を探していました。
探していたのは、TOHOシネマズ新宿の複合ビル屋上の“ゴジラが見える窓“でした。
「この辺に窓があればいいのだけど、というところに窓がない。思ったよりも窓が少ないから、見つけるのが難しいね。窓があれば交渉するけど、ないんじゃどうしようもない」と中野は言いながらも、探すことをあきらめはしません。
スポンサーのある仕事ではありません。あくまでも自分自身のための撮影ですが、中野は、モチーフの見え方に、こだわります。
当たりをつけたお店に向かうために、EVに乗ると、その店の階のボタンが押せません。
どうして?と思えば、コロナによる自粛中との案内が掲示されていました。
2020年夏の東京の現実に直面します。
中野は、路肩に車を止めていた、ビルの電気工事をしている人たちにも聞いてみますが、思うように見つかりません。
と、ここで、番組スタッフから質問が投げかけられました。
「なんでそもそもゴジラを撮りたいんですか?」
この質問に、中野は「だって唐突感が凄いじゃん!あと、そういうの(ゴジラ)を見ながら暮らす人って、どうなんだろうって興味もある」とすっと答えます。
素直に感じたままに、行動を起こす人なんだな、と思いました。
その感覚が、鋭いんでしょうね。すごい作品を生み出す感性を持っているんだろうな、と思いました。
地上からビルを見上げ、ここなら、見えるかも!と思う場所を、中野はしらみ潰しにあたっていきます。
店舗の人にイメージを伝えて、“ゴジラの見える窓”を見せてもらえるように、交渉をします。
「こういう風にゴジラが見える窓を、探しているんですけど」
「わかりました」
「とりあえず、見せていただいて」
あるカラオケ店で、ゴジラが見えるという一室に案内されました。
窓からゴジラの方向を見ると、ゴジラの顔が、手前のビルに邪魔されて、半分くらい隠れてしまっていました。
「かろうじて(ゴジラが見える)。ちょっとさえぎられている。これだと、ゴジラより手前のビルが。。。」
カラオケ店の店員に、丁寧に御礼と詫びを言いながらも、中野は決して妥協はしません。
“ゴジラが見える窓”探しは、2日目になりました。
気温34度の真夏日。
ある雑居ビルの10階にある飲食店に、中野はアプローチします。
店員から、営業が始まっているので、明日の14時ごろに、改めて来てもらえればと言われます。
“ゴジラが見える窓”探しは、3日目を迎えました。
中野は、重さ8キロの機材を担いで、昨日の店に向かいました。
「これで、また空振りだとどっと疲れるね。撮らせてもらえるといいけど。。。」
中野の粘り強い姿勢から、こんなセリフが聞かれるとは思わず、私はちょっと意外な気持ちがしました。
ゴジラは、ガラス窓の外にはめられた、スリット(柵)ごしに、見えました。
柵ごしではありましたが、中野の中でOKがでたのでしょう。
お店の許可を得て、中野は店内にカメラをしつらえます。
準備を終えると、中野の目つきが変わりました。
お店の開店準備の邪魔にならないように、慎重に、でも素早く撮影を進めます。
無事に撮影を終えることができました。後は現像して、仕上げるだけです。
歌舞伎町の街で、風景写真を撮っている男の人に、中野が声をかけます。
中野が自己紹介をすると、男性は、中野の写真集を知っていました。
その男性は、感心したようにこう言っていました。
「あの有名な中野さんに、こんなところで会うなんて。何がいいって、中野さんなんて超レジェンドで、雲の上の人なのに、やっている事は、カメラを担いで歩いているっていうのが、すごいですね」
まったく!!
ただただ、自分の興味と感性を信じて、同じことを粘り強く繰り返す、地道な作業の積み重ねが、スゴイ作品を生んでいたんですね。
情熱大陸 中野正貴が『東京』を撮る理由コンセプトをどう決めているの?
中野が考える良い写真とは、どんな写真なのでしょう。
CANON PHOTO CIRCLE(注)で、中野はこんなことを言っています。
「撮っている人が、しゃしゃりでないほうがいい」
あるがままを、そのままに撮る、ということなのでしょうか。
(注)CANONが、『フォトライフをもっと楽しく、もっと豊かに』のキャッチフレーズのもと、キヤノンユーザーのニーズに応えるために作った写真サークル。
中野にとって、『東京』を見つめる事は、ライフワークと言っていいでしょう。
早朝4時半、コロナで自粛が続く中、手初めに撮ろうときめたのは、船から見る『東京』でした。
朝焼けの街並、コロナが無ければ、今ごろはオリンピック・パラリンピックで沸いていただろう有明体操競技場、浜松町付近で静かに停泊している屋形船。
川を遡ると、水運都市だった街の横顔がよくわかります。
やがて、中野がシャッターを切り始めます。
でも、船に同乗をしている番組スタッフも、中野が何をとっているのか分かりません。
中野は、「どこを撮っているんですか?」という問いかけに、
「変なところ。基本的に。きれいに撮るんじゃなくて、気になるところを撮るって感じ」と答えました。
彼の感性、眼のつけどころは、彼ならではで、他の人には分からないのかもしれません。
中野が覗き込むファインダーの中で、街は大きく変貌してきました。
築地市場跡地を見て、「寂しいね」と語る中野。
失われた景色は、少なくありません。一方で、新たに出現した光景もあります。
八丁堀付近の高層ビルに中野はカメラを向けました。
「町は生き物だ」と中野は言います。
自分の中で東京1つのテーマにしようと考えたのも、それが理由だったと言います。
しかし、中野は十分にコンセプトを練ってから、撮影を始めたわけではないと言います。
「コンセプトから作っていくタイプじゃないのね。面白いなと思ってることをやり続けると、どっかでやっぱりそういう何か理論武装みたいなものが必要になってきて、(それに合わせて)また取り足したりとかっていうのを、繰り返しやってる間に、なんとなく出来上がってくる」
「何が面白いかなんて、後で考えればいいんだ」とも言っています。
番組では、彼が師匠とあおぐ秋元茂と、久しぶりに代官山で対面していました。
中野は、「朝から晩まで一緒で、とにかく毎日怒られていた。(秋元は)業界で5本の指に帰る入る怒りんぼって言う話だったし」と、当時の話をしていました。
秋元は、「そうかな」といいながら、自身の写真に対する持論をいいます。
「写真は技術じゃないから、いい写真を撮ると言う事は、自分の中に何かないとできない」
あ~、まさしく、中野はその持論を受け継いでいるのだな、と私は納得しました。
秋元は、中野に対して、こんなことを言っています。
「中野の写真を見たときには、僕とは全然違うのだけどもさぁ、こういう形で僕のところから出た人間が、写真を撮ってるのかと言う、この嬉しさ、そういう意味では、僕は恵まれているカメラマンだと思った」
秋元にとって、中野は誇らしい弟子なのでしょう。
歳を重ねてもなお、作品を発表し続けていると言う秋元茂は、中野にとって、今も変わらず人生の道標に違いありません。
中野は、言います。
「今、俺は65歳になっちゃったから、あと15年経った80歳じゃん。そんなんしていたら、終わっちゃうじゃん人生。そうすると、頑張って撮らなきゃみたいに思う」
とはいえ、機材の重さは身にこたえます。
「何歳までできるんだろうって、考えるよね、ほんとに。体が動かなくなるまでやるんだけど」
さまざまな思いが錯綜しながらも、写真を撮り続けることは、揺るぎません。
そして中野は、無人の街を求め『TOKYO NOBODY』の撮影に出ました。
朝6時、撮影を開始。
20年前の『TOKYO NOBODY』は、街から人影が消えた一瞬を、僥倖のようにとらえた写真集でした。
でも、今年5月に中野正貴が記録した無人の街には、不気味な静けさばかりが漂っていました。
人がもともと居ない街。
撮り始めて、中野が「あっ」と声をあげます。
画面にトラックが入ってしまったのです。
人の息吹を取り戻しつつある街を撮るからこそ、“NOBODY”の価値があります。
「このずーっと(人気がなくなる瞬間を)待っている時間が、ほんとに修行みたいなんだけどね。30年も修行やってんだもん」と、中野は言いながらも、写真を撮り続けます。
中野の作品は、変わらない写真家の魂と、執念の結晶といえるのかもしれません。
情熱大陸 「中野正貴~誰も見ぬ東京を撮影してきた写真家が撮る新たな東京の景色」を観て
写真は、現実をただ記録するものだと、私は今まで思っていました。
中野の撮る写真は、そのままを写しながら、そこに生きる人々の息吹を感じさせる、被写体が物言う写真なのかもしれないと思います。
だからこそ、現実の記録とともに、その中に未来が織り込まれているのかもしれません。
中野が、「自らの写真集を予言書みたいになった」、と言いながらも、『TOKYO NOBODY』と『東京窓景』のモチーフを自分の感じるままに、引き続き、愚直に撮り続けています。
この繰り返しこそが、また、新たな気づきが現れる素地なのかもしれないと思いました。
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