サワコの朝 がんサバイバー笠井信輔が、がん(悪性リンパ腫)ステージ4の闘病生活をインスタ・ブログで公表した理由と、今後の仕事を語る!

2020年11月14日の「サワコの朝」は、フリーアナウンサーの笠井信輔。

2019年9月に、フリーアナウンサーとして独立活動を始めようと、長年勤めたフジテレビを退職しました。
が、2か月後の12月には、悪性リンパ腫が発覚し、入院、闘病生活を余儀なくされました。

これから、新しい仕事への取組み方を!と思った矢先のがん宣告を受けた時お思いや、闘病生活中、また復活して思うことについて、番組では語られました。

新しい考え方へのシフト、周りの人への感謝に溢れた心温まる、そして励まされる話が聞けて、胸が熱くなりました!




サワコの朝 笠井信輔プロフィール

笠井信輔(かさい・しんすけ)は、東京都世田谷区出身の1963年生まれ(57歳)です。

祖父は、劇作家・脚本家の阿木翁助、妻は、テレビ東京社員で元アナウンサーの茅原ますみです。

学生の頃より、芸能リポーターが大好きだったのだとか。

“疑惑の銃弾”(注1)にはまり込んでしまった、といいます。
「そればかりをずっと言い続けてみるような学生でした。芸能ネタも好きだったし」

(注1)疑惑の銃弾:1981年から1982年にかけて、アメリカ合衆国のロサンゼルスで起こった銃殺・傷害事件に関して、三浦和義にかけられた一連の疑惑。1984年、『週刊文春』が「疑惑の銃弾」というタイトルで、妻に多額の保険金をかけていたことや、三浦の供述の不審な点などをクローズアップして「三浦が仕組んだのではないか」とする連載記事を掲載したことで、報道の過熱化や、刑事訴訟法上、事件についての判決が確定したとき、同一事件については再度審理を許さない、一事不再理の原則(いちじふさいり)などの問題を投げかけた。

早稲田大学在学中は、スキークラブと放送研究会の両方に所属し、大学3年生の時に、TBS『ぴったし カン・カン』でアルバイトをした経験があります。大学卒業後、1987年フジテレビ入社し、『FNS27時間テレビ』、『ナイスデイ』などに出演し、アナウンサーとしてキャリアを積みました。

阪神大震災や、東日本大震災などの大規模災害では、被災地の取材とともに、被災地支援にも積極的に、取り組んでいます。

『情報プレゼンター とくダネ!』では、司会の小倉智昭氏のアシスタントを務めていました。

2019年9月30日、32年間勤めたフジテレビを退社しました。

そのわずか2ヶ月後2019年12月18日に、血液のがん、悪性リンパ腫(ステージ4)でみつかり、公表しています。

12月19日には、『とくダネ!』の生放送に出演して、病名が「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」であることを伝えました。

12月21日に、ブログを開設し、病状や闘病生活についてつづり始めます。

2020年5月1日に退院し、6月5日には、主治医から悪性リンパ腫が、完全寛解(かんぜんかんかい)したと伝えられたことをブログで報告しています。


サワコの朝 笠井信輔がフリーになると決めたきっかけ。山下達郎の「Hey Reporter」が戒めであり、向かう先

サワコの朝、定番の「記憶の中で今もきらめく曲」で、笠井信輔が選曲したのは、山下達郎の「Hey Reporter」。

1982年に出されたアルバム「FOR YOU」中に入っている、芸能リポーターに対して、批判的な主張をしている歌です。

笠井:「芸能レポーターが好きで、結局、その仕事に就くことになったので、この歌は、どこかで自分を戒めるっていうか」

サワコがズバリと聞きます。
「笠井さん自身は、馬鹿野郎いい加減にしろ!と罵声浴びせられた事はあるんですか?」

笠井が答えます。
「水をかけられたことがあります。よく土足で上がるっていますけれども、それが、当時まだ許されていた時代で」

確かに。ここ2~30年で、報道の在り方は大きく変化したと思います。
以前は、過激なイメージがありましたが、今は、人権とか、規制などが前面に押し出されているように感じます。

サワコ:「小倉さんの朝の番組『特ダネ』は20年やってらして。面白いこともあるだろうけど、大変でもあったろうし」

笠井:「とにかくいつも眠いんですよ。いつも眠い」

サワコ:「ふふっ、あ、そう」

笠井:「私、エンターテイメントが、大好きなものですから、
映画と言うフィールドでは、年間150本ぐらい新作を見るんですけれども、
その他に、お芝居を年間100本ぐらい観ていたんですよ。
ですから、帰って大体22時、23時で、それで慌てて寝て、2時半とか3時に起きるでしょう。
毎日それを20年、やってましたんで、信じられないような働き方をそしてました。
働き方改革の直前に止めましたんで、家族だけでしたね、そんなに働いてどうするの?と」

サワコ:「どうするの?」

笠井:「何か負けたくなかったんですよ。楽をしていたら、絶対に今より上にいけないなと。
今より上に行くためには、もっともっと貪欲に、がむしゃらにやらないと。
もう、もろ昭和。24時間戦えますって言うのを、令和になってもやろうとしていた男なんですよ」

サワコ:「それは、体調のために、良くなかったんじゃないですか?」

笠井:「結局、それが響いてがんになってしまったんじゃないのかとは、家族からは本当に言われました」

サワコ:「奥様に叱られました?」

笠井:「妻からは、ほんとによく叱られていました」

サワコ:「奥さんも、元アナウンサーで、テレビ局に勤めてらして、仕事の内容も事情も、よく理解のある方なわけでしょう?」

笠井:「遠慮がありません。『それは、あなたの仕事じゃないでしょ?なんで、あなたがやるの』と。私、50歳過ぎても、台風中継やってましたんで。50歳になって、台風中継に行くアナウンサー、他局では、どこにもいません」

サワコ:「そうなんですか?」

笠井:「そうなんですよ。現場で喋りたいんですよ、伝えたいの」

サワコ:「でも、『特ダネ!』の小倉さん(小倉智昭)は、結構アドリブがあるから、リポートに出ている人は、相当と喋ってないと、大変じゃない?」

笠井:「安藤優子さんほどじゃない。安藤さんはどこから飛んでくるか分からないので。
この球ですか?安藤さん!と言うような感じですから。
小倉さんは、新人とか、現場のことよくわかってないと思うと、
途端に、質問は柔らかくなります。
でも、ベテランとかが行くと、次々と、そこまで取材しているでしょうねって感じで飛んできます」

サワコ:「笠井さんには?」

笠井:「私には、結構飛んできました。そして、私は、正直に『そこまで調べていません』、と答えていました。無理に取り繕うと、間違ったこと言ってしまうから」

へぇー、根っからの報道マンで、現場主義なのね、きっと、と思いました。

サワコ:「どうして、フリーになろうと思ったんですか?」

笠井:「“とくダネ”を20年やってきていて、マンネリ化してくるものですから、色々と、手を変え品を変え、カンフル剤を打って行かなきゃいけない。若いアナウンサーたちを、注入してきまして、プロデューサーからは、『笠井さん銃後の守りです。後ろに下がってください』」

サワコ:「銃後の守りなんて、今わかる人いるのかしら?」

笠井:「『とにかく、若い人たちが入ってきたから、そこをアシストして鍛えてください』と言われて。ここ2、 3年、どんどんと、私のしゃべる時間が減っている。
いやこれは、自分の限界を見極めなきゃいけないなと、
フジテレビにおけるサラリーマン人生は、そろそろ終わりに来ているなと、
出番をくださいって、上の人に訴えるのは、違うなと。ここから脱出したほうがいいと、
清水の舞台から、飛び降りるような気持ちで、『えい、やぁ!』と飛び降りて、
見事に着地を決めてやると思ったら、『がんです』と、言われて、地面がなかったって言う、あぁーと、また落ちちゃったって感じです」

サラリーマンの常だわ。若い人の活躍の場を奪ってはいけない、とは思うものの、年齢を重ねても、前線で活躍したい思いを持つ人だって多いと思うのです。


サワコの朝 笠井信輔ががん(悪性リンパ腫)に気づくのは難しい。気づいたきっかけは?

サワコが番組の冒頭に、笠井に聞きます。
「もう痛いとか、苦しいとか、辛いとかって言う症状はないんですね?」

笠井:「もう一切ありません。完全寛解(かんぜんかんかい)(注2)といって、私の体から全てのがんが消えましたという状態です。」

(注2)完全寛解:全てのがんが消滅し、新たながんが出現してない状態

サワコ:「完治とは違うの?」

笠井:「違います。完治とは、もっと先のことで、これで、2年、5年と経っていくと、もうこれでほんとに安心だねって言うような状況になるようです。それに至るよりも前だけど、がんはもうなくなっている。無理しないでくださいって言うことなのかもしれません」

サワコ:「そもそも最初の兆候は何だったんですか?」

笠井:「最初は、排尿障害(はいにょうしょうがい)です。尿が出にくい、痛い、頻尿」

サワコ:「じゃあ、膀胱炎(ぼうこうえん)かなぁ、ぐらいな感じ?」

笠井:「調べていったら、前立腺肥大ですと言う診断でして。これが2ヶ月ぐらいたっても、
良くならないので、先生も、もうちょっと調べましょうって、さらに詳しくCTを取ったところ、
放射線技師の方から、ちょっと骨盤に、気になる影があると言われて、
さらに調べていませんかって話になって」

サワコ:「影があるって言われて?この段階で、がんの疑いをもたれて検査したのね?」

笠井:「ガンかもしれませんねって調べが進んでいて。結局2ヶ月ぐらい経って」

サワコ:「そんなに時間かけて?」

笠井:「悪性リンパ腫って、見つかりにくいんですよ。何処かに腫瘍ができる典型的な部分がんや、内臓がん(肺がん、胃がん等)とは違って、場所が分からない。リンパですので、血液のどこに原発があるのかも分からなくて」

笠井:「痛みとかが出れば。私は腰痛だったので、結局は、腰に太い針を刺して骨髄生検(こつずいせいけん)と言って、骨髄を抜いて、そこに、がん細胞があったので、悪性リンパ腫だって分かったんです」

笠井:「非常にわかりづらいので、痛みが出ない人は、本当にがんが進行してから、わかる方もいらっしゃるそうです」

サワコ:「なるほど」

笠井:「排尿障害も、全部、がんのせいだったんですよ。前立腺肥大と言うよりは、悪性リンパ腫で排尿障害が起きていました」

排尿障害だ、と思い込んでいたら、大変なことになるところだったんですね。

悪性リンパ腫は見つけにくいのですね。がんの疑いを持って調べても、2か月もかかったなんて。

放射線技師が、影を見つけてくれなければ、がんであることすら気づかなく、治療が遅れていたかもしれないと思うと、本当に怖いものです。


サワコの朝 笠井信輔がインスタ、ブログでがんの闘病生活を赤裸々につづった想い

笠井は、フジテレビで、朝の情報番組に 20年間携わっていました。

芸能から事件報道までを扱い、阪神淡路大震災や、東日本大震災のときには、被災地の取材に奔走しました。

そして、去年9月、フジテレビを退社し、フリーアナウンサーとして活動をしようとした、わずか2ヶ月後に、悪性リンパ腫が見つかりました。

サワコ:「『悪性リンパ腫です』と言われたときのお気持ちは、どうだったんですか?」

笠井:「それは、『もうちょっと待ってよー、やめてよー』って言う感じ。フリーになって、これからって言う時に、『ステージ4』と言われ、がんの進み具合が1番上のランクで、全身に回っています。さらに他のところにもちょっと侵食しています、と言うような最悪の状態です。もうその時は、死ぬのかなと思いました」

笠井は、闘病生活を写真や映像に記録しようと決めて、5日間連続抗がん剤投与を全6クールの様子も日々撮影し、SNSで発信していました。

2019年12月23日は、最初の抗がん剤投与が開始された映像でした。
妻:「のっぽくん(抗がん剤投与用のスタンド)がんばれ!24時間やっつけろ」

笠井:「のっぽくんと一緒に、5日間は暮らす」

妻:「うまく効いてね。お願いします」

 

2019年12月31日(大晦日)の映像での笠井のコメントは、
「体重が、この三日間で5キロ減りました。いや、ちょっと困ったなと。食べてはいるんですよ。がんばって食べているんですけれども」

2020年4月10日は、抗がん剤投与の最終日の辛そうな笠井の様子が、そのまま映像で流れます。

笠井:「抗がん剤治療も、今日が最終日です。あと1日、がんばります」

サワコ:「5日間120時間抗がん剤を打って、どのくらい?2週間ぐらいあけて打つ?」

笠井:「2週間位開けます」

サワコ:「抗がん剤をずっと打ち続けている時が、1番苦しいの?」

笠井:「私の場合は、抗がん剤を打って後半、そして、打ち終わってから、大体1週間から10日位が非常に厳しかったです。倦怠感とか食欲不振とか。ただ、今、抗がん剤は、本当に良い薬ができていて、効くんですよ」

入院期間中、笠井が心がけていたのは、食事です。

病室で、インドカレーや、焼肉弁当を食べたこともありました。

闘病中の食事で、悩まされた事があったと言います。

笠井:「味覚障害が、起きるんですよ。抗がん剤によって、私の場合は、ほとんど味がしなくなってくるのと、甘みだけが強く感じてしまうと言う味覚障害でした。人によって全然違うんです」

サワコ:「へぇー違うんですか」

笠井:「餃子を食べたいって言った時に、妻が、有名店を渡り歩いて、4つの色々な具のは言った餃子を買ってきてくれたんですよ。『よし、餃子パーティーだ』って4つの味を1つずつ食べて、、、うなだれました」

サワコ:「ん?」

笠井:「全部同じ。妻にきかれました『同じ味ってどんな味なの?』。醤油とラー油の味しかしない」

笠井:「ですから、ほんとに、人によっては、砂を食んでいるようだとか、泥を食べているようだとか。私は、もこもこして、食欲がわきませんでした。でも食べる事は戦いでした」

さわこ:「日記のように、ブログで発表してらっしゃったのは、それは、ジャーナリストとしての気概みたいなものですか?」

笠井:「それは、かっこ良すぎるんですよ。
情報番組人生を歩んできた私は、有名人や著名人のプライバシーをお伝えしてきました。
この情報は、出して欲しくないって言うところに、マイクを持っていきました。
自分が、あまり聞かれたくないなと言う事態に、今度はなりました。
だとしたら、自分から出していかなきゃいけないなと。
それは、自分の義務であり、バランスが取れないと。
この30年間やってきた事の贖罪と言うと、ちょっと言葉が、かっこ良すぎるんですけれども。
やらなければいけない1つのことだと思いました」

サワコ:「発表すると、発表しただけ、良い反響もあるけど、批判的な反響もあったりするでしょう?」

笠井:「今回ブログとInstagramをやって、光と影があるとしたら、光しか感じませんでした。もうこれは、衝撃的な体験でした」

サワコ:「あのどんな?」

笠井:「『笠井信輔、がん』と新聞に出て、“とくダネ”で発表したら、
1千、5千、1万、2万と増え、
入院したら10万、20万、入院中に30万人までフォロワーが増えました。
半分以上の方が、私はがんです、がんでした、家族ががんですって言う人。
自分は、笠井さんに遅れてがんになったけれども、笠井さんを目標に、前向きに行きますなんて。
そーゆー励ましと、笠井さんのことをずっと見続けて、励みになってますと言う、
この2つのコメントが、山のように来て。
多い時は、それが1千件くらいになるんですよ。
これはもう、自分だけの生き死にじゃなくなってきたなと思ったんです。
責任がある。
このまま、『ごめん、みんな、やっぱり駄目だった』って言ったら、
どれだけの人を失望させて、どれだけの現在闘病中の人たちを、
暗闇にまた落としてしまうかなと思って。絶対に戻んなきゃと思いました」

サワコ:「はぁ、なるほど。力になった言葉は、ありますか?」

笠井:「ありました。それは、私、阪神大震災の取材をしているんですよ」

笠井に届けられたメッセージは以下のようなものでした。
『阪神淡路大震災の時に、私はあなたの取材を受けました、産婦人科医で、あなたは、震災当日に生まれた赤ちゃんを探して、うちの病院に来て、『やってるんだ』って一言。未だに忘れません。あの後、私は、あなたと同じ、悪性リンパ腫になりました。そして今、元気にまた、医師として活動しています。笠井さん、大丈夫ですよ』

笠井:「そのことを、忘れられませんね。もうね、25年経っていて。
でも、やっぱり皆さん覚えていてくださっているんだなぁと、自分がやってきたことをね。
そして、東日本大震災の被災者の方からも、いろんなメッセージをいただいて。
南三陸の方は、お見舞いに来てくれました。10年経っているんですけれども。
宮城野区の仙台の岡田地区の方は、たくさんのお土産と、寄せ書きを送ってくださいました。
『自分がやってきた事は、間違ってなかったんだな』とそんなふうに思うと、
ベッドの上で、力が沸きました」

サワコ:「良かったね。信頼されていたってことね」

笠井:「『Hey Reporter』から始まってね。やっぱり、そこまでなんとか行き着くことができたなぁっていうのが、山下達郎さんに感謝です」

サワコ:「これからですよ。でも」

笠井:「うん、これからです」

笠井が選択した「今、心に響く曲」は、宮崎菜穂子の「がんばらない日Part2」でした。

笠井:「抗がん剤で横になっているときに聞いて、頑張らなくていいんだよって、宮崎さんに言われてるような気がしながら、その度に、涙をツーっと流しながら、がんばる、がんばる、あっそうだ、がんばらなくていいんだみたいな」

頑張り続けてきたからこそ、頑張らなくてよいという言葉が染み入るし、本当の価値が分かるのかもしれないな、と思います。


サワコの朝 笠井信輔が闘病に必要な情報は5~10年前はもう古い。薬は日進月歩で変わっている!

サワコ:「あの、おぐしは、地毛ですか?」

笠井:「地毛です。本物です。抗がん剤で、1度全部抜けるんですよ。ほんとにねーもうツルツルのスキンヘッドになりまして、そこからまた生えてくるんですけれども、天然パーマになるんです。抗がん剤の影響で、髪の毛は、天然パーマなるんですよ」

さわこ:「何で?」

笠井:「知りません。そういうものなんですよ。がんサバイバーの人、誰に聞いても、1回抜けて、くせ毛になるんだって。それが、大体数ヶ月経ってくると、また元に戻ってしまうんですって」

さわこ:「ストレートに戻るってことですか?」

笠井:「この髪型が楽しめるのは、期間限定ですよ、とも先輩に言われました」

抗がん剤の副作用として、スキンヘッドになることは知っていましたが、その後の地毛が、一時天然パーマになるなんて、知りませんでした。

抗がん剤は、本当に良く効くと、笠井は言います。

笠井:「薬は日進月歩。私が入院している最中にも、新しい薬が認可されるぐらいですから。
私たちがんサバイバーの中で言われている事は、先輩に経験談を聞くのは、とても大事なこと。
でも、5年前10年前の先輩に聞いちゃだめ。
5年前10年前の本読んじゃだめ。
全然違うんですよ。苦しみも違う」

笠井:「20年前とか30年前のがんサバイバーの方を、もう尊敬しますよ。当時は、吐き気止めがちゃんとしてないですから、皆さん吐きながら、抗がん剤を受けているんですよ」

サワコ:「そう聞きました」

笠井:「でも、今、吐き気止めが、とてつもなく開発されていて。私は、ほとんど吐き気はなかったです」

サワコ:「あぁ、そう」

笠井:「だから食べたくなくても食べる、無理矢理食べるっていうのをやっていました」

がんは、治る病気になりつつあるとは聞いたことがありますが、本当に、現状を知って対することが大事なんですね。


サワコの朝 笠井信輔がアフラック(がん保険)の宣伝に登場。がんサバイバーの仕事は?本は?

笠井は、熱を込めて語っていました。

本当の意味で、第二の人生をいただいたなと、思っていると。

今まで、取材やボランティア活動で支えた、震災復興の被災地支援に加えて、がんという、もう一つのテーマに向かっていきなさいと言うことを神様に言われたというように感じると言っていました。

そして、サワコから、「これからは奥様をいたわらなくてはいけませんよ」と訓示が。

笠井:「はい、そこはやっぱり、改めなきゃなと思っていて。自分の生き方を否定されたので。ガンによって。いろんな新たな価値観とか、新たな生き方をしていかなければいけないなと」

サワコ:「大事な家族と向き合って」

笠井:「でも、まだやっぱり時折怒られています。仕事モードに入っちゃうんですよね。バーと。いろんなことセーブしつつでも、やっぱり働けるって本当に嬉しいですよ」

サワコ:「よかった」

笠井:「こんなに幸せなんだ、働けるって。病気をして、改めてわかるようになりました。普段、こんなに働かなきゃなかいけないのかなあと、思うこともありましたけれども、働けること自体に、やっぱりありがたみを感じて」

サワコ:「でも、働きすぎちゃいけませんよ」

笠井:「そこなんですよ。そこが難しい。バランスを取るのが難しい、昭和生まれ」

サワコ:「昭和のせいにしちゃいけない。自分のせいですから」

笠井:「はい、そうですね。自分の性格なんですね、これは」

サワコ:「昭和じゃなくて、性格ね」

そんな笠井は、櫻井翔が広告キャラクターを務める<生きるためのがん保険Days1 ALL-in>のアフラック生命保険のCMシリーズ最新作(10月5日~)に登場しました。

桜井翔が、タブレット画面越しに、リモートで笠井にインタビューを行うという内容になっています。

笠井自身が、収入がなくなってからのがん治療が、高額だったらしいのですが、がんをカバーできる保険に入っていて救われたと言っています。

その実体験を交えた話が、届けられています。

早速、がんの体験を活かして、その情報を伝える活動をしているのですね。

また、著書も発売されます。

人を伝えるのではなく、今度は、自分を伝える、自分を通じて伝えるにも、チャレンジし続けていくのかもしれませんね。

笠井信輔著「生きる力 引き算の縁と足し算の縁」角川書店
11/18発売



サワコの朝 「フリーアナウンサー笠井信輔」を観て

率直なもの言いと、病気だったことが信じられないほど明るく、お茶目な笠井アナの話に、ずっと魅了された時間でした。

本当に、リポートをするために、生まれてきたんでしょうね。

やらないではいられない性分というか、情熱を感じました。

また、今までとは違う笠井アナを見れることを、楽しみにしています。

本当のところを伝えてくれて、ありがとうございます!


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